時には角を立てることも…

正直、人の愚痴を聞くのは疲れる。でも自分も愚痴を言いたくなる時もあるし
例えばその愚痴が後になって役に立つこともある。
ぶっちゃけて言えば、好意を持っている相手との楽しい会話の一部であれば
愚痴とも感じないことが殆どのような気がする。

よく話す友人の1人に愚痴をユーモアに昇華して話すのが上手な人がいる。
相当ヘビーな話をしているはずなのに、気がつくと2人で笑い転げている。
そんな彼女を見倣い、仕事上で何か物申す際も角が立たぬようユーモアを交えて伝えていたことが多い気がする。
立場上、私が物申す際は物申された人が、何かしらの作業だったり対策を打つことになり、その対応を悶々とした気持ちでされても成果物の質は下がるのが目に見えているので、なるべく良い気分で行ってもらいたいと考え
私なりの配慮のつもりだった。
が、それだと真剣味だとか切迫感が伝わらないのではと思うようになってきた。
つまり時と場合により角を立てることが必要なんじゃないかと思うのである。

武田信玄の甲州山

かなり有名な話なので、ご存知の方も多いと思うが武田信玄は自分専用の六畳間のトイレを持っていたそうだ。
そのトイレは「甲州山」と呼ばれていたそうで、なぜ「山」なのかというと「山には草木(くさき)が絶えぬゆえ」とのこと。あまりにも機転が利き過ぎており、後世の噺家の創作なのではと疑ってしまうが、新潟出身で根っからの謙信びいきの私でさえも思わ図、しょうもな…と親しみを感じてしまった。

鎌倉殿の13人のストーリーの組み立て方

昨年夢中になった「鎌倉殿の13人」。
ほのぼのシーンの後に悲劇ありとTwitter上では囁かれていて、大いに共感したものだ
例えば、思わず顔がほころんでしまう家族の団欒を描いた翌週には父と息子の今生の別れを描く。
心が緩むシーンを作り感情移入させて視聴者に劇中人物への愛着心を呼び起こし、その後で容赦なく突き放す。
つまり劇中の「笑い」や「ほっこり」が悲劇をより悲劇と思わせるための仕掛けなのだ。
人の心の仕組みを理解した巧みなギミックだと思う。

食うか食われるかの狭間で

相手に嫌われたくないという思いで、角を立てないようにしてきたわけではない。その方が結果としてうまくいくのではないかと考えただけである。自分が困っていることを声高に発していたが、ユーモアを交えてしまう話ぐせで逼迫感が伝わらなかったのかもしれない。田舎育ちの口の悪さを隠すために丁寧な言い方を心がけ過ぎてしまったかもしれない。

周囲を変えるには自分を変えよ、などと言うのは甘い罠で、価値観が異なる相手には通用するわけがない。既に自分の場合は心身に支障が出てしまっている。大したことのない支障のような気がするが、とんでもない支障なのである。きっと。

自分の考え方のとらわれから抜け出し、仕事上での人との向き合い方を改めよう。食うか食われるかの狭間で障害からは逃げる。戦う必要はないし勝つ必要も無い。負けなきゃいい。