門司城は豊前志等によると、平知盛が1185年に源氏との合戦に備え長門国目代の紀井通資に命じて築城させたと伝わる。平家物語の「大宰府落」に紀井通資らしき人物が出てくるようです。

1184年 一ノ谷の戦いで敗れた平家は讃岐国屋島に逃れた。
その後、平家は陣営を二つに分け棟梁の宗盛は屋島に、知盛は下関の彦島に本陣を構え対岸の門司にも拠点を築き海峡の制海権を握っていたと言われている。
1185年2月源範頼軍が平家の有力豪族である原田 種直を破り、平家の地盤であった長門・豊前・筑前を制圧した。(芦屋浦の戦い)
この敗戦により、彦島で知盛率いる平家軍は孤立することになってしまった。その時に、この門司城も範頼軍配下に入ったのだろうか。(門司は豊前国に属する)
1185年築城が正しいのであれば、門司城は芦屋浦の戦いの前後に関門海峡を臨む見張り砦として築城されたのかもしれない。
私が訪問した5月は草が生い茂っていて視界良好とは言えなかったが、草木が茂らない季節であれば彦島方面も長府方面も隈なく見渡せるだろう。

門司城から眺める対岸は下関市街。中央の黒い背の高い建物は海峡ゆめタワー。右側の入江はフェリーが発着する。入江の右側は名高き唐戸市場だ。

関門海峡のシンボル、関門橋はかっこいいのでついつい眺めてしまう。

古城山の中腹から彦島方面を臨む。工業港は見慣れないので新鮮だ。

戦国時代には大友・毛利氏の勢力争いの場となり、明治になると陸軍によって古城山砲台が置かれた。
門司城址のある古城山の中腹にある第一展望台駐車場までは自動車で行けるようだが、
普段自動車を運転しないため車で行く発想がなく、麓から山頂まで2泊3日の荷物を背負って徒歩で登ってしまったため、とても疲れた。
頂上は季節柄、雑草が鬱蒼と茂り疲労とあいまりしばし呆然。
あまり写真を撮らずに山をおりてしまった。
頂上にあった明治時代の要塞跡等も記憶の中には残っているのに、余程体力を消耗したのか写真が全然残っていない。次の機会も積極的に作り、駐車場まではタクシーで向かうことにしよう。
写真にはうまく残せなかったが、関門自動車道は関門橋から古城山の和布刈トンネルに入る。山頂に向かう道が関門自動車道近くを通っている部分があり、なかなかスリリングだった。
1184年
2月7日 一ノ谷の戦い
源氏軍が摂津国福原に陣取った平家軍を急襲し勝利。この戦いで平家一族の多くが討たれた。平家軍は讃岐国屋島に逃れる。
1185年
2月1日 芦屋浦の戦い
源範頼率いる平家追討軍が、筑前国の葦屋浦で九州の平家方の豪族原田種直らとの合戦に勝利して九州上陸を果たす。
2月19日 屋島の戦い
源義経が摂津国渡辺から暴風雨の中、阿波国椿浦に渡り屋島に布陣する平家軍(平宗盛)を襲い勝利。宗盛軍は知盛の本拠地彦島に逃れる。
4月25日 壇ノ浦の戦い
長門国赤間関壇ノ浦で行われた源平最後の海戦。
※日付は旧暦